仕事のぼやきはグチれるが、育児と家事はぼやけないって話です。
ぼやき:妻のケース
パートナー(つまり妻)は仕事から戻るとたいていその日あった出来事のグチをこぼす。大半は○○があって仕事が進まなかった、というような話だ。
僕はそれを聞いてるようで聞き流して、子供がこぼした味噌汁を拭くなどしている。
妻も別に何かこちらに解決を求めているわけではない。ただ口からグチを垂れ流して日々のストレスを少しでも緩和しようという、妻なりの防衛本能なのだろう。実際、「それなら□□したらもっと仕事できるようになるんじゃない?」と、グチの情報を精査しそれなりに思考をめぐらせて味噌汁をこぼした子供を放置してさぞや有益かつクリティカルな回答をしたと思ったのもつかの間、それを聞いた妻は「そんなの分かってるけどさ!」と雷神のように怒りだした。
グチる妻にアドバイスすると謎の逆鱗に触れる。地雷はどこにでも埋まっているのである。この時の夕食の雰囲気たるやそれはそれは刑務所のまずいメシより気まずい雰囲気。そういう時には子供も黙る。子供とは得てして利口な生物である。
そんな背景を経て、妻のグチは聞き流すのがベスト、との判断に至り、我が家の夕食に平和が戻ったのである。もちろん、全然聞いていないわけではないし、適切なタイミングで相槌も打つしリアクションもする。妻のぼやきは解決を求めるものではないということが分かったので、みんなハッピーになったのだ。
ぼやき:Otoのケース
さて、そんな感じでグチをこぼす妻だけれども、やはり自分ばかりグチっているのはバランスが悪いと思うのか、「Oto、いつも頑張ってくれてありがとうね、つらいこととかグチとかあったらもっと言っていいんだよ」と水を向けてくれる。
しかし、そう促されてもなかなかグチは出てこない。グチることが無いわけではない。いや、むしろありすぎるほどある。そんなグチを飲み込んで、僕はグチを口に出さずに頑張るんだ!と体育会系のノリがあるわけでもない。そんなことならこんなブログなど書いていない。
なぜグチをあまり言わないのか。それはとても単純。もし僕が家事と育児のグチを言ったら、それはそのまま「妻がもっとやればいいのに」という意味になってしまうからだ。
まぁそれは実際そういうことなのかもしれないし、僕が他人の家庭について同じことを聞いたら、「パートナーがもっとやればいいんじゃない?」と言ったことだろう。でも、そんなにシンプルに解決するなら、こんなに世の中子育てでぎすぎすしてないだろう。
多少とも客観的に妻の状態を見ているつもりだが、生活の中で彼女にできる家事と育児はあまり多くない。朝食・夕食準備、保育園の送り迎えの半分を担ってくれたらそれは僕もずいぶん楽になるが、そうすると今度は彼女の仕事が立ち行かなくなるのは目に見えている。そしてそれが続くと、夕食は刑務所のまずいメシどころか、悪魔の晩餐(キン肉マン)よろしくおどろおどろしいものになるだろう。
結局、僕の子育てと家事のグチは、ブログのネタとして成仏させるより他は無いのだ。
子育てぼやきがなぜネットに充満するのか
そして、書いていて分かった。なぜ世の中こんなにも主婦による夫への死刑宣告とも見まごう育児関連の悪口で満ち満ちているのか。それは、直接それを本人へぶつけても詮無きことであると知った主婦たちのぼやきが言霊となってネット界へと漂流している結果なのだろう。
そうかそうかそういうことか。
そしてまた一つ、言霊となったぼやきが、Wi-Fiにのって仮想世界へと漂流していく。
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